2011年10月29日 (土)

第65回二紀展

画家・浜村博司さんが参加する第65回二紀展が10月12日から
24日まで東京・乃木坂の国立新美術館で開かれた。

浜村博司さんについては「ある画家」をご覧ください。
長崎の原爆こだわって絵をか き続けている。
今回のタイトルは「遠い記憶」だったろうか。いいかげんですみません。


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次は今回の「二紀賞」受賞作品。



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次は二紀展でよく見かける方の作品。



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あと、気に入った作品をいくつか載せてみましょう。



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2011年9月11日 (日)

公園の朝


このところ朝はようやく、涼しくなてきた。

勤めの行き帰りに通る公園も早朝はいい雰囲気になってきた。

というより、周りの景色を眺める余裕がでてきたようだ。

このブログの更新も1年ぶりとなってしまった。

なんとか月に1,2度はしたいものだが、、、


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2010年8月16日 (月)

サマルカンドの朝(サマルカンドへの旅-7)

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サマルカンドの丘の上にかつてはロシア人が多く住んだという住宅街があります。

朝早く歩いてみました。

ところどころに真紅のバラが咲いていて静かな街でした。

オアシスというと砂漠の中の小さな街というイメージが強かったのですが

ここは緑にあふれた街でした。

古代から「サマルカンドは世界で最も美しい街」といわれたのは、

なるほどと感じました。

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街のあちこちにこんなバラが咲いていました。

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人のいない朝の公園です。

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2010年8月12日 (木)

ウルグ・べク少年と天文台(サマルカンドへの旅-6) 

サマルカンドが有名になったのはチムールがチムール帝国の首都とした事から。
今回はそのチムールではなく、孫のウルグ・べクの話。

チムールの死後、帝国は内紛にあけくれウルグ・べクの時代は領土もかなり
狭くなっていたのだが、いまはそういうことではなく、少年の頃の話。 

 ウルグ・べクは夜空に興味をもっていて、よく城を出て丘に登り、星空を眺める
のが好きだった。そこで、ときどき同じように夜空を見上げる少女に出会った。
二人は気が合い話がはずんだ。
少女はまもなく気の進まない結婚式をひかえていたがそのことは話さなかった。
ある日、少女は街から逃げ出そうと夜、丘に出かけたが召使いに見つかり街に
連れ戻された。

結婚式当日、少女の目の前に現れたのはウルグ・べク、その人だった。
こんな逸話があった。
このウルグ・べクの建てた天文台の一部が発掘されている。
パミール高原の支脈の支脈といった感じの雪を被ったウルグット山(2800m)を
正面に見るアフラシャブの丘(旧サマルカンドの街はここにあった)の外れにある。

ちなみにウルグ・べクは古代天文家10人の一人といわれ、その計算の
1年の時間は現在の計算と1分も違わないという。
ガイドさんによればこの発掘がもっと早ければ今のガリレオ暦は
ウルグ・べク暦になっていたかもしれない、ということだった。


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天文台跡


チムールの死後、内紛が起こったがウルグ・べクは父のシャー・ルフを
援けてサマルカンドを手中に納め、この統治を父から任せられたという。
ウルグ・べクは15,6歳の若さでサマルカンドの主となり、この後、
青年期から壮年期にかけ、サマルカンドは世界有数の文化都市として
繁栄していく。

ウルグ・べクは文化人を保護し多くの建造物を造り、自らも天文学者と
して業績を残していく。レギスタン広場の回教
学校も最初は彼が建てたものだった。

そしてこの写真の天文台跡も、かつてウルグ・べクが建設した
天文台の発掘跡に建てられた。
かつては美しいタイル張りの3階建ての建物があったというが、
今は六文儀の跡が残っているだけ。

天文台跡地はアフラシャブの丘にあり、向こうに広がるのが現在の
サマルカンドの街。


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天文台の六文儀の跡。


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ウルグ・べク天文台の記念館の中の絵。中央の人がウルグ・べクだろうか。


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チムール一族の墓所・グル・エミール。
チムール、ウルグ・べクなど数人が安置されている。


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サマルカンドの回教寺院では青いドームが印象的だが、ここも青いドームが綺麗だった。


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1階部分に墓石のような石があるが、これはさらに地下にある墓石の位置を
示すもの。写真はウルグ・べクのもの。

ウルグ・べクの死は悲劇的だ。父親シャー・ルフの死後、また内紛が起こり
ウルグ・べクとその長子は協力して困難を乗り切るが、後にこの両者は対立し
長子の送った刺客によってウルグ・べクは斬られてしまう。


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2010年8月10日 (火)

シャーヒズインダ廟群(サマルカンドへの旅-5)

アフラシャブの丘の南麓に日本人観光客にも人気のある
チムールにゆかりの人々霊廟がほぼ一直線に並ぶ、
シャーヒズインダ廟群がある。

今のサマルカンドの遺跡はほとんどがチムール朝時代のものだ。
それ以前のものはモンゴルなどにほとんど破壊されつくしたか
発掘調査が進んでいない。

この廟群は世界中の回教徒やヨーロッパの人々が集まり、
いつもにぎわっているという。今ヨーロッパ人の回教徒が
急速に増えているとも聞いた。

いかにもイスラムの雰囲気が伝わってくる場所だ。


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イスラムではお墓は本来無料だそうだが、最近はこのシャーヒズインダ廟群の
後ろの丘に金持ちが大金で写真入りのお墓を建てるのが流行っているという。
天国に行きやすいのだそうだ。
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2010年8月 2日 (月)

サマルカンド・ブルー(レギスタン広場)

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サマルカンドの回教寺院の青いドームは特にサマルカンド・ブルーと
いうそうです。主要なドームはトルコ石を材料にしたタイルで覆われている。
サマルカンドの街の中心のレギスタン広場を囲んで、3つのイスラム
神学校(メドレッセ)が建っている。
正面に向かって左側がウルグ・べク・メドレッセ、正面がティリャ・
カリ・メドレッセ、右側がシル・ドール・メドレッセだ。

15世紀から17世紀にかけて建てられたサマルカンドを代表する
建造物である。
最も古いのはウルグ・べクのメドレッセである。

7世紀にアラブ軍に、13世紀にモンゴル軍によって街が全滅した
サマルカンドが復活した象徴のような場所でもあるのだ。


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右側のシル・ドール・メドレッセ。


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なかなか民族色が豊かなので記念写真の横から撮らしてもらった。


青のドームを少し。サマルカンド・ブルーといえるかどうか。
井上靖さんは旅人の心に滲みるブルーと言ってますが。


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内部は金色の荘厳な雰囲気。


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中庭から空を見上げる。


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人々は中庭でくつろいでいた。


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2010年8月 1日 (日)

サマルカンドへの旅-3(バザール)

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タシケントに着いた翌3日、バザールに出かけた。
予想したとおり多くの店に大勢の人出だった。

また、近くにソ連時代は軍隊の宿舎になっていて
忘れ去られていたメドレッセ(神学校)も復元されて
いた。

昼食は郊外の川沿いにある野外レストランに寄った。
涼しい快適な店だった。

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野菜と果物は豊富だ。
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これはにんじんを袋に入れ二人で揺すって泥を落としているところ。
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バザールの近くの再建されたメドレッセ(神学校)
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このレストランは風がやさしく緑もまぶしかった。
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肉の焼き方も迫力満点。

サマルカンドへの旅-2(首都タシケント)

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5月2日午後5時半(日本時間では9時半)ウズベキスタンの首都・タシケントに
着いた。宿はインターコンチネンタルホテル。
公園に隣接したきれいなホテル。まず、ここの写真から。

隣の公園は予想より緑が多く池も広く驚いた。オアシスといっても規模が大きく
砂漠は何百キロも先、水も緑も豊富なのだ。

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池には鴨も泳いでいた。

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公園のお洒落なメリーゴーランド。

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この公園だけではなく、次に訪れたサマルカンドでも真紅のバラが
いたるところに咲いていた。古代から、それこそ玄奘三蔵が訪れた頃も
家々には池があり花が咲き乱れていた、というのだから。

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2010年7月18日 (日)

サマルカンドへの旅-1(天山山脈)

また少し前の旅です。2008年5月、ウズベキスタンの
サマルカンドへ行った。いくつか行ったシルクロードの旅の
ひとつのピークだった。
 
5月2日に成田を発ってから数時間後、飛行機はタクラマカン砂漠を
越え、いよいよ5000~7000m級の山々が連なる天山山脈にさしかかった。

かつては西安から何ヶ月かかったのだろうか。シルクロードを西に向かう
隊商にとっては最大の難関だったのだろう。

眼下の雲の切れ間から姿を現した天山山脈は雪を被り、きびしい山容は
迫力に満ちていた。

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前方遙かかなたに霞む山なみは崑崙山脈でしょうか。

 

2010年7月11日 (日)

月牙泉

最近マイナーな旅が続いたので、5年前の2010年の8月に
敦煌など河西回廊を巡ってきた時の月牙泉についての話をしよう。
ちなみにそのときのスケジュールです。

旅行日程
8/6(土)10:55 成田発
    16:10 西安着
    21:05 敦煌着(敦煌賓館泊)
8/7(日)玉門関、莫高窟、鳴沙山、
    月牙泉  (敦煌山荘泊)
8/8(月)午前、敦煌。午後、車で酒
    泉へ(酒泉賓館泊)
8/9(火)酒泉市内、夕刻、嘉峪関へ
       (嘉峪関長城賓館泊)
8/10(水)嘉峪関、懸壁長城など
    18:00 嘉峪関空港発
    21:00 西安着
        (皇城花園酒店泊)
8/11(木)12:00 西安発
     19:00 成田着

敦煌の莫高窟から西へ約20キロ、砂丘の麓のに月牙泉という小さな泉がある。
砂丘の黄色と泉の青の対比が美しく、なによりも水場として昔は貴重な存在だった
のだろう。その月牙泉の30年前、20年前と今回の写真がある。
なかなか面白いので紹介しよう。

まずNHKシルクロード取材班の30年前の写真。

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右の丘に日干し煉瓦の塀のようなものがみえるがほとんど何もない。自然そのまま
という感じで素晴らしい。

次に岩手のじさま(昨年、亡くなりました)が20年前に撮った写真。

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そして5年前の旅行の写真。

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中国らしい楼閣が建っていた。
これはこれでいいのだろうが、やはり30年前のシンプルな風景が見たかった。
とはいっても、このあたりの観光地化はもう止めようがない。
砂山にはハシゴが一列に置かれ登りやすくしてあり、ラクダでの散策もでき
そのラクダも2箇所に50頭ぐらいいた。

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それに私もこの近くに出来た敦煌山荘というホテルに泊まった。
窓から砂山が見える絶好のロケーションだった。

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